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えりこさんからの風

 

おかげさまで、かぜのねはこの5月で5周年を迎えることができました。これまで様々な形で支えてくださった皆さまに感謝いたします。かぜのねの協同経営者たちだけでは、到底ここまで続けることはできませんでした。多くの皆さんに見守られながら、やりたい放題やらせてもらっているのを実感しています。
 

今日はかぜのねにとって、そして私にとって、とてもとても大切な人について書いてみたいと思います。彼女の名前は、えりこさんです。--pagebreak--
 

以前も書きましたが、かぜのねを始める時に市民債券ということで、友人・知人たちからお金を借りました(5年目に返すという約束だったので、今返済手続きをしているところです)。20名ほどの方がほとんど想いだけで動いていた私たちに無利子でお金を貸してくれました。えりこさんは私たちのお願いに一番に応えてくれました。それも、ゼロが一つ多いのではないかと思うくらいの額です。急いで確認をした私のメールへの返事で、以下のような言葉を贈ってくれました。


「アメリカの国債に化けるようなお金の預け方をオトナたちがもっと考え直そうよ」2005年のアジア太平洋みどりの京都会議で小林一朗さんの話を聞いて以来、ずっと考えていました。

確かに。もっと効率のよい仕事をしている人は他にいるかもしれないよ。
でも、私がちゃんと出逢った人は春山さんだ。

そして5年後に、そのお金をどうするのかを春山さんをはじめ
「かぜのね」のみなさんとまた相談できるように。


こんなに私たちが市民債券でお金を集める意図を汲み取ってくれる人がいるなんて、そしてかぜのねでやろうとしていることに共感してくれる人がいるなんて、本当に幸せだとつくづく感じました。
 

彼女とは、かぜのねを始める数年前に知り合いました。そんなに長い付き合いではないのですが、年齢も近かったし、問題意識も近かったし、時々会って話をするのが楽しみでした。いや、彼女の生きる姿勢に私は惚れぼれしていたのかな。
 

えりこさんはいろんな風をかぜのねに吹き込んでくれました。
こんなこともありました。友人が翻訳に関わった本『冬の兵士』をもとに「朗読会をしたいね〜」とかぜのねで彼女と話をしていました。そうしたら、まずその翻訳をした友人がふらっとかぜのねに来て、その後に次々とその企画に関わることになる友人たちがその場に現れて、朗読会の計画がその場でどんどん具体化されていったのです。イラクからの帰還米兵の証言の朗読会がその後かぜのねで開催されました。
http://www.kazenone.org/modules/kazeblog/index.php?content_id=29
 

その朗読会に参加したのをきっかけに知り合ったダイスケは、その後かぜのねのスタッフになりました。今思うと、えりこさんが今のかぜのねに必要な人材を送り込んでくれたような気がします。
 

 

そして今がその「5年後」です。
でもえりこさんはもういません。
 

彼女は2012年の春に癌で亡くなりました。2002年にあと2年と告知されたそうなので、ものすごい気力で生き抜いたのだと思います。告知された時、彼女はそれまでに支援してきたグアテマラの人々のことを思ったそうです。


…説明を続ける医師のペン先を追いながら、なぜか脳裏には次々と久しく遠のいていた人たちの顔が浮かんでくる。この10年間に出逢ってきたコナビグア(つれあいを奪われたグアテマラ女性たちの会)のロサリーナさんや、姉を暗殺した軍の責任を裁判で追及したヘレン・マックさん、女性国際戦犯法廷の証言に立ったヨランダ・アギラルさんら。いずれも危険に身をさらしながらもあしたの平和を願って闘うグアテマラの女性たちだ。「運命」と「絶望」にすくい獲られてはいけない。根を張ろう。彼らのように根を張ろう。


その最後の数年にかぜのねが生まれ、いろんな形で応援してくれました。宣告された余命を越えてこんなにがんばったんだから、きっと「5年後」に一緒に今後のこと考えてくれるよねと、祈る気持ちでいたのですが、間に合いませんでした。
 

実は彼女は生前葬をかぜのねでやっています。「これは私の生前葬」と冗談っぽくいう彼女に皆は「そんなこと言わないで」と言っていたのですが、その場で彼女はたくさんのつながりを作ってくれました。本当にたくさんの置き土産。
http://www.kazenone.org/modules/kazeblog/index.php?content_id=52


彼女の病、多発性骨髄腫は原発労働者の労災に認定されるものだそうです。なぜ自分がそんな病になったのか不思議がっていましたが、ある日テレビ番組でアメリカのロッキーフラットという核兵器製造工場についての報道をみた時にピンと来たそうです。彼女は高校の時にアメリカに留学していました。そこはロッキーフラットの風下で、その頃プルトニウムがその工場から漏れていたのです。もしやと思って、そのときお世話になった人に連絡を取ると、その地域では癌になった人が多いとのこと。実は私も数年後にロッキーフラットにとても近い大学に留学していたのですが、その頃にはその工場は閉鎖されていました。
 

その時から10年以上経ってからの発病。もちろん当時はそんなこと知る由もありません。そして本当にそれが原因なのかは今となっては証明できません。でも、彼女の被爆、そして発病してからの生き方から考えさせられることはたくさんありました。
 

今でも彼女がよく話していた「いまここ」を生きることの意味を考えさせられています。


えりこさん、風になってかぜのねを見守ってくれていると思うけど、ねぇ、次はかぜのねで何をやらかそうか?


 
 

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